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産業医 関谷 剛 メッセージ

安全衛生委員会の歴史〜歴史を振り返り、安全衛生委員会の役割強化を〜

統括産業医の関谷です。
猛暑に集中豪雨と近年の日本の夏の気象は、従業員の通勤を含めた健康と安全を考慮しないといけない状況となっています。一定規模の事業所では安全衛生委員会が設置されていると思いますが、事業所として従業員の健康と安全を確保し、病気や事故を未然に防ぐという大きな役割を安全衛生委員会が担っているのは言うまでもありません。
現在、労働安全衛生法に基づき、一定の基準に該当する事業場では安全委員会、 衛生委員会(又は両委員会を統合した安全衛生委員会)を設置しなければな らないこととなっていますが、歴史を遡ると労働安全衛生法の前身となる労働者の健康を保護するための工場法が施行されたのは1916年(大正5)9月1日でした。
労働者の健康と安全を守るために百年以上に渡り脈々と継承されてきている労働安全衛生法の歴史を振り返りながら、法律の設立には国内に広がった感染症や大きな労働災害がきっかけとなっており、それらを踏まえながら今後の安全衛生委員会の活性化や役割強化について、この機会に職場の皆様と共に考えるきっかけになれば幸いです。

[1]勤務時間や年齢制限もなかった明治時代

明治時代になって近代化の道を歩み始めた日本は、「富国強兵・殖産興業」をスローガンに政府主導できわめて短期間に近代産業国家に生まれ変わり、その明治の近代産業を担ったのは、繊維産業、鉱業、鉄鋼業などでした。しかし、現場に目を向けると、鉱山では大規模なガス炭じん爆発が相次ぎ、繊維産業では農村出身の女工が、粗末極まる寄宿舎生活と深夜業を常態とする長時間労働という苛酷な労働条件のもとで、生活を強いられていました。
繊維産業で働く女工には10歳ほどの児童も含まれていて、明治33年(1900)の調査では繊維産業の寄宿女工の死亡率は千人あたり平均8人前後で、結核性疾患を原因とする者がその5割(肺結核3割)であるが、疾病のまま解雇された者が多数有り、その約5割が結核性疾患であったと推計しています。繊維工場から、郷里に帰された罹患者から農村に結核が広まり、やがて「国民病」となり、国家的な問題に発展します。
明治15年頃から国も労働者保護の動きをみせますが、産業界からの反対の声が強く、法律を議会で可決することが出来ませんでしたが、女工の深夜勤務禁止を主要テーマの一つとし、国内の結核対策も含めることを主張して、ようやく明治44年(1911)工場法が公布されました。

<工場法とは>
工場法は、常時 15 人以上(大正 12 年(1923 年) からは 10 人以上)の職工を使用する工場及び危険又は衛生上有害な工場に対して、行政官庁が「危害を生じ又は衛生、風紀その他公益を害する処ありと認むるときは予防又は除害のため必要なる事項」を命じる権限のほか、労働時間の制限、女性や年少者の保護、業務上傷病の補償等を規定した。工場労働については、児童・年少者や女子の保護を主要内容とし、職工一般の保護は、安全衛生のための行政監督権限、労災に関する事業主の扶助責任、賃金支払い原則の一部、就業規則作成義務、などに限られていました。
戦後の労働基準法が、労働者全般について8時間労働制、週休制、年次有給休暇制、賃金支払い諸原則、休業手当、等々の国際水準の労働基準を樹立したこと、年少者・女子に関する保護内容も充実させたことなどに比すれば、初期の過渡的な労働保護法でした。しかしながら、工場法はそれまでは国家的な規制がなかった雇用関係の内容につき、当時特に必要と考えられた労働保護を強行的な基準として法定し、行政監督の仕組み(工場監督官制度)を樹立した最初の法律であり、国家的な労働保護システムの制度化それ自体に基本的意義を見いだすことができます。

[2]労働基準法から労働安全衛生法で成果が結実

昭和初期には、戦時体制の進行に伴って感染症の予防をはじめとする衛生の確保は陸海軍の重要な課題となり、 昭和11年(1936年) 国民の体格低下を認識した陸軍が衛生省の設置を提案し、翌年には閣議で保健社会省の新設が決定され、昭和13年(1938年)1月、枢密院に名称の変更を指示されて厚生省が設置されました。
同省発足後間もなく工場法に基づく省令であった「工場危害予防及衛生規則」が改正され、同34条の3が常時500人以上を使用する工場の工場主(事業主)に工場医を選任させる義務を課しました。同時に、5人以上の工場で安全管理者を選任する義務、10人以上の工場で安全委員を選任する義務、更には安全委員会に関する事項も規定された。 この省令は、工場医を工場の衛生に関する事項を掌る者と位置づけ、具体的には月1回の職場巡視と年1回の健康診断を行うよう規定しました。

■戦後に方針が大きく変わる■
太平洋戦争が終わると、その直後から本格的な労働者保護法制を検討する動きが始まり、昭和20年(1945年)10月、連合軍総司令部(GHQ)の指示により、新しい労働保護法の立案作業が始まりました。昭和21年(1946年)3月、ILO条約や英米の労働法令を参照しながら、同年5月に労働保護法草案を起草し、GHQへの説明を経て、7月の労務法制審議会に諮りました。同法案は戦前のILO東京支局長であった鮎沢巌委員の提案で労働基準法と改称され、8月に同審議会で承認された。同年11月に日本国憲法が公布され、その第27条第2項は「賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める」としました。これに基づいて、昭和22年(1947年)4月7日、工場法が廃止されて労働基準法が公布され、その第5章に安全及び衛生に関する14の条文がまとめられました。同日、労働者災害補償保険法も公布されたのです。
■大事故の多発で安全衛生委員会の設置が義務化■
1963年(昭和38年)11月9日、三井三池炭鉱で炭塵爆発事故が発生し、その同じ日に横浜の鶴見で列車脱線二重衝突事故があり、それぞれ甚大な被害をもたらすと、それを契機として安全に関する世間の関心が一気に高まり、翌年には労働災害防止団体等に関する法律(昭和39年法律第118号)が制定されます。
また、1966年(昭和41年)には100人以上の事業場については、安全委員会、衛生委員会の設置が義務化されました。この改正によって、現在の安全・衛生委員会制度の基本形が作られたと言えます。特に、 第1号の委員以外の委員の半数については過半数労働者代表の推薦に基づいて指名しなければならないとされたことは、労働者の「参加する権利」 という点から見ても画期的なことでした。
■労働安全衛生法が1972年(昭和47年)6月に施行■
1972年(昭和47年)6月、労働安全衛生法(以下「安衛法」)が公布されました。同法は、経営首脳者に労働災害防止の責任を自覚させ、安全衛生活動を推進させるために、指揮命令者である労働基準法の使用者と区別して、法人を指す「事業者」という言葉を使用。経営側に多くの具体的な義務を課しました。
そして、すべての業種で一定規模以上の事業場には、組織全体を統括する立場の者を「総括安全衛生管理者」として選任し、企業の生産やサービスと一体的に安全衛生管理を行わせることにしました。また、衛生管理のうち技術的事項については新たに規定された「衛生管理者」に管理させることを規定しています。さらに、建設業等の重層下請関係で事業を実施する場合には、元請け側に「統括安全衛生責任者」を、下請け側に「安全衛生責任者」を選任する義務を規定しました。

<労働安全衛生法がもたらした成果>
安衛法は、労働災害防止への手法や仕掛けとしての労働災害防止計画、安全衛生教育、特別規制等、様々な規定があり、それらが全体的に関連しあいながら労働災害の減少を目的にしていました。安衛法の成果としては、最大の目的であった労働災害の減少、特に死亡災害の減少に大いに寄与したことがあります。
死亡災害が過去最高だったのは1961年の6712名で、安衛法ができるまでは、ずっと高止まりでした。ですが、安衛法が施行されてからは、1974年には5,000名を切り4,330名へ、1981年には2,912名に、1998年には1,844名へと減少し、2015年にはついに1,000名を切って972名となりました。その後は1,000人未満の状態(直近の2020年は802名)を維持しています。今後も、決してあってはならない死亡災害はもちろんのこと、労働災害全体の減少を各事業所は安衛法とともに取り組んでいくことが望まれます。

[3]安全衛生委員会の役割と未来

ロハス通信を読まれている事業者の皆さんは安全衛生委員会を設置して活動されていると思います。安衛法により衛生委員会の設置は義務化されていますが、設置基準などは最終ページの「参考になるサイト」で厚生労働省のリンク先を参照して頂くことにして、ここでは安全衛生委員会の活動に関して、この時代に求められる新しい役割について解説していきたいと思います。

■新しい時代に求められる役割の変化■
事業所は労働者の健康や安全に配慮した環境整備に、これまでも努めてきたと思います。しかし、工場法が出来た明治から大正時代や、安衛法が出来た昭和の高度成長期の労働の内容や従業員の安全と健康問題は、現在では大きく異なってきています。特に、新型コロナによってもたらされた感染症予防対策という、新しい社会課題が登場した今、事業所の労働環境と、従業員の健康維持について見直す時期がきているといえるでしょう。

     <ポストコロナ時代の健康管理の基本姿勢>
□□□通勤や飲食を含めた人との接触を提言する取り組みの促進□□□
①職場における感染防止のための取り組み(手指消毒、咳エチケット、従業員同士の距離確保、事業所内の換気励行など)
②「三つの密」や「感染リスクが高まる『5つの場面』」を避ける行動(図1)
③「業種ごと の感染拡大予防ガイドライン」の実践等、感染予防のための行動の徹底
図1:感染リスクが高まる「5つの場面」(厚生労働省資料)

■職場の安全を巡視する■
従業員が同じ時刻に出社して、並んで座って働き、同じ時刻に退社している事業所は減りつつあると思います。出退勤時間を自分で選べるフレックスタイムから、出社そのものを行わないテレワークが当たり前になり、職場の安全に在宅での仕事環境が含まれるようになりました。在宅勤務する従業員の健康と安全を確保するために、安全衛生委員会として、在宅勤務での居住環境やデスクワーク環境の確認が求められるようになってきています。
これまでの職場の環境改善を踏まえながら、在宅ワークでの個々の従業員の健康と安全を担保出来るように、リモートでの在宅ワーク環境の巡視などの処置を講じる新しいルール作りも必要になってきています。
■健康や安全を実現するために進化する法整備■
例えば喫煙について過去を振り返ってみると分かり易いでしょう。昭和時代は職場内だけでなく、公共の場所や電車内でもタバコは吸えました。しかし、タバコを吸わない人でも、他人が吸ったタバコの煙によって健康に害があることが分かると、タバコの副流煙を他人が吸えないようにするため、公共交通機関から始まり、職場内も禁煙になり、一時は建物内に喫煙所を設ける公共施設やオフィスビルがありましたが、今ではそれも規制の対象となり、飲食店でも禁煙となりました。これは日本に限らず、世界中の国々で禁煙に対して厳しい法制度で対策が行われました。
国民の健康や安全は社会全体の課題として政府は捉えており、生活の中に潜む健康や安全を脅かすような要因に関しては、関係する業界の利益を急激に損なわないように、少しずつ規制を強めながら、将来も法制度としても整えていくでしょう。時間を掛けても国民の健康と安全が約束できる社会インフラを整備していくという流れは、国際的な健康と安全に関しての価値観が共有されているという背景もあります。安全衛生委員会でも世界の健康と安全へのトレンドがどこに向かおうとしているのか、国連機関の提言などにも触れる機会を持つようにしてください。
■産業医との連携■
以前は「労災の防止」が安全衛生委員会の役割であったが、今は感染症であるコロナウイルスに、メンタルヘルスの不調への対応など、高度な医学的知識を持ち合わせている医師の助言が必要となる場面が増えています。
産業医は専門医学的立場で労働衛生を遂行しており、実際に数多くの事業所で診察を行い、様々な事案に遭遇しています。事業所での過重労働対策、メンタルヘルス対策、リスクアセスメントの推進に関する政策において、作業環境測定や職場巡視を通して、産業医に職場や作業の実態を理解させ、改善させる活動にも携わってもらう様な提案を安全衛生委員会で行ってみてはいかがでしょう。

[4]安全衛生委員会で参考になるサイト

安全委員会・衛生委員会について
安全委員会、衛生委員会の設置基準について厚生労働省の「安全衛生のQ&A」に最新の情報が掲載されていますので、所属の事業所ではどの委員会を設置すれば良いか、設置後の運営をどうすれば良いか、労働安全衛生法に則った説明があります。

中央労働災害防止協会のサイト
中央労働災害防止協会は、事業主の自主的な労働災害防止活動の促進を通じて、安全衛生の向上を図り、労働災害を防止することを目的に、労働災害防止団体法に基づき、昭和39年(1964年)8月1日に労働大臣(現:厚生労働大臣)の認可により設立された特別民間法人です。サイトには労働者の視点で、労働安全運動100年の歴史年表が掲載されています。

あとがき

労務系の法律は年々変わっていきます。障害者の雇用のパーセンテージの変化や勤務間インターバル制度などの情報を共有し、法律の改正によって会社として注意するべき点について安全衛生委員会で議論することお勧めです。産業医 関谷剛

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